「言の葉の庭」が刺さって抜けない
昨日初めて「言の葉の庭」を見た。想像していた話とは随分違って、けれどとても良い作品だった。
良い作品だったのだ。
心に刺さって抜けないくらいには。
「歩き方を忘れてしまった」というのがもうだめだった。その言葉が、刺さって抜けないままでいる。
「歩き方を忘れた」雪野先生と、その雪野先生が遠くまで歩けるように靴を作るタカオ。
靴というのは不思議なもので、遠くに連れていってくれるものであると同時に、プレゼントになると「どこか遠くへ行ってくれ」という意味になる。
タカオの気持ち的には間違ってはいないのだが、一般的にはマイナスの意味になってしまう。だから、タカオが「どれだけ遠くに行ったって会いに行く」と言うことで、すべてをプラスにしていて唸るほかない。
とまぁ冷静に解釈しているのだが、雪野先生に共感してしまって、見終わったあとも涙が止まらなかった。
話は少し変わるけれど、映画でも音楽でもそうだが、すべてのものに私は共感してしまう。
最近そんなことを異質に感じてしまう。だって、あまりにも主観的すぎる。客観性のかけらもない。私のフィルターを通してしまっては、作品の解釈がブレてしまうような気がするのだ。それになんだか嫌じゃないか。この人の気持ちは私と同じだ、とか、私の気持ちを代弁した曲だ、とか。
けれど、他人が言っていてもさほど気にならないから、ただ自分がそう思っているのが嫌なだけかもしれない。
結局こんな話に落ち着く。そんなところも嫌だなぁ。