幽霊船は海で踊る

一週間に一度、おすすめ本の投稿をしています。

本の話

人はどうして本を読むんだろうと考える。

人生において本が必要な理由はなんなのだろう。

(ここでいう本とは、媒体としての本ではなく、物語のこと)

 

娯楽といってしまえばそれまでだが、一冊の本で人生が変わることもあるのを、私は知っている。かといって、勉強かと言われれば、そうでもない。特に私の場合。

これほどまでに本を好み、本を読んでいながら、本のことを「無駄な部分」と私は言っている。勘違いしないでほしいのが、本当に無駄だと思っているわけではなく、「世間一般的には不要なものとして位置付けられているもの」と知って「無駄なもの」と言っているのである。「無駄なもの」を言い換えれば、「趣味」「娯楽」「遊びやゲーム」となる。言い換えた他の物に比べれば、本はまだ勉強、つまり「実用的なもの」のうちに入るからいいような気もする。けれど、「物語を読んでいます」といえば、「内向的な人」とされてしまうのがほとんどではないか。

だってこれはフィクション。嘘の話なんだもの。

言わずもがな、私は本が好きで、反対を言えば、実用的なものが得意ではない。本を読むならばフィクションだし、ハウツー本なんかは読んだことがない。読んでも退屈に思えるし、それを実践しようと思えないから。それでも時々考える。

 

「なぜフィクションを読むのか」

 

「物語は心の栄養だ」とか「想像力を豊かにする」だとか、「日本語をよく知ることができて勉強になる」だとか、いろいろ言われているけれど、私にはどうもピンとこないでいる。

分かるような気もするし、分からないような気もする。少なくとも、「どうして本を読むの?」という問いに対して「勉強のためです」とか「心の栄養のためです」だとか、そういう答えは返せない。

 

文化を大切にしない文明は滅びる運命にある。どこかで聞いたことがある気がするし、私もその通りだと思っている。世間一般の人が言う「無駄なもの」こそ、大切にしなければいけないのだとずっと考えている。

けれど、本だとか音楽だとか、そういう「芸術」と呼ばれるものは、往々にして、社会の「負け組」なんて呼ばれる人たちにこそ才能があると思っているのも本心だし、事実そうだと思う。人生で「勝ち」とか「負け」とか、そういう表現は嫌いなのだけど、まぁ一般的な表現を使わせてもらう。「芸術」を生み出す人たちと、それを必要とする人たちは、社会にうまく馴染めない人だ。それは、社会的な評価は関係なくて、自分の認識に依存するけれど。だから、社会をまわしている、数多くの「正常な」人たちにとって、「芸術」なんてものは「不要」に感じることが多いのかもしれない。だって、何の実にもならないんだから。

 

図書館の役割についても、考えるとよくわからなくなってしまう。図書館は必要なものだし、保存しなければならない施設なのは、まぁ「こちら側」の人間からさせてもらえば周知の事実。保存すべき資料はこの世に何万とあるのだし、価値のあるものは保護し、かつ、知識を必要としている人には開示すべきだ。けれど図書館の実態は、みな小説を借りてばかりいる。本屋と図書館は、果たす役割が違うから敵ではない。だけども時々思うのだ。「借りずに買えばいいのに」と。どうしても、本屋の役割を食ってやしないかと考えてしまう。

どんな人間にも知識を得る権利があるのだから、本をいくらでも貸したい気持ちと、そうやって借りてばかりだから出版事業が衰退するのだと憤る気持ちがどちらもある。

 

 

 

ずいぶん脱線してしまった。

森見登美彦の『熱帯』に、こんな一文があった。「本がなくても生きていけます。でも、本当にそうでしょうか?」(本文を見ずに記憶だけで打っているから、多少の違いはあるかもしれない。でもこれは論文ではなくブログだから許してほしい)

その一文が、ずっと心に残っている。

 

まぁ、ああでもないこうでもないと、自分の中で議論しながら、それでも本を読むのをやめられず、読み続けているんだけども、この前ふと思い至った。

 

「これ、もしかして深淵を覗いているのでは?」と。

 

 

 

 

 

一部とても怒られそうなことを書いた。申し訳ない。諸説あります。