今ふたたび本の話
本との出会いは一期一会であり運命だ。
たとえそれがどんな本であろうと、その縁を逃してはならない。
本には魔物が棲んでいる……。
ときどき、文字を読まないと呼吸ができないときがある。それは、いくつもの本を読んでいるときによく起こるのだが、文字を読み、言葉を喰んで、そうやってやっと呼吸ができている。そんなふうに感じるときがある。
それはきっと、本に棲む魔物に取り憑かれているのだろう。
図書館で働いていると、それをよく感じるときがある。
規則的に並んだ書棚。本たち。カウンターに座っていると、その息遣いまで聞こえてくるようだ。
本なぞ、言ってしまえば、ただ文字の書かれた紙の束でしかないのに、どうしてこんなにも、人の心を捉えるのだろう。
物語を読み終わって、あるいは中断して、本を閉じたとき、あの世界が幻だったのだと、ただの物語でしかなかったのだと知ったとき、少しばかり絶望する。
それほどまでに物語は、人を魅了する。それは、本に魔物が棲んでいるからに違いない。
さて、休日の間に、本を読み終えてしまった私は、手元に物語がないことに絶望している。文字がなければ呼吸もできない。
本に棲む魔物はいつでも、私たちを狙っている。きっといつか、その魔物に殺されるのだろう。
羊毛フェルトでマスコットを作る
羊毛フェルトを始めた。というのも、今保護している犬がいるのだが(この件に関してはまた書く)その犬が今換毛期を迎えている。
昔祖父母の家に犬がいたこともあって、換毛期の毛の量は、それでなくとも多いことを知っていた。だが、やはり驚くほど毛が出る。歩けば出るし、寝ても出る。これで、自然に抜けるのを待つだけでなく、ブラッシングも必要というのだから驚いた。ブラッシングすれば、もう1匹できるんじゃないかと思うほど毛が出てきた。調べてみれば、柴犬は特に多いらしい。
この数週間で、急激に暑くなったので、犬のためにもできるだけ取り除いてやろうと思うのだが、やりすぎも良くないらしい。難しいところだ。
少し前まで、ツーブロックのようになっていたのだが、今ではほとんど抜け落ち、かなりすっきりした。
犬の話ではなく。そう、毛が大量に出るのである。それで、いつだったか、犬の毛で、本人(本犬?)そっくりのぬいぐるみを作ったというのを思い出し、今になってようやく作り始めたのである。
手芸をあまり得意としない私には、フェルトというのはよく分からなかった。だが調べてみると、スターターキットは100円ショップに売っているし、どうやら初心者にもやりやすいらしい。ニードルと呼ばれる針でちくちくしているとできるという。
それならばやってみよう、とさっそく先日キットを購入し、始めたのだが、
説明の意味が分からない。もともと説明書を読むのを嫌うたちで、作り方の動画もろくに見ずに始めたのも悪いが、もっと簡単にできると書いてあったはずだ。
丸めて刺せばいい。やった。綿を刺しているだけだった。本当にこれでできるのか?そう思いながら刺した。綿を刺しているだけだった。
そういえば、キットの裏面の説明では、伸ばして巻きつけると書いてあったが、理解できなかったので飛ばした。そのせいか?
よくわからないながら考えてみた。おそらく、丸める段階で、ある程度固めなければならないのだろう。ギュッと伸ばすと確かに羊毛は固くなった。
まぁそんな試行錯誤を経て、なんとか球体を作った。あとはこれを続けるだけである。
ところで、前述したように、羊毛フェルトは、ニードルで刺して作るのだが、可愛げのある刺し方をしていてはひどく時間がかかるものだと、最初の段階で気がついていた。
だからとにかく刺しまくった。真剣に、ぬいぐるみになるだろう目の前の羊毛を刺しまくった。途中で、これはサイコパス育成キットか何かか?と思いながら。ぬいぐるみになるものをこうやって刺しまくるのはいかがなものか?と思いながら。
まぁそんな勢いで刺すし、今作っているものは小さいものだから、結構な勢いで指を刺す。これがまぁ痛い。
不器用ながらも裁縫針で指を刺したことがない私でも刺さる。
羊毛フェルトのニードルは、いろんな種類があるようなのだが、標準のものでも、少し平たくなっていて、ところどころにちょっとした凸凹がある。それが刺さるのだからまぁ痛い。それなのに傷跡をほとんど残さない。
少し厚めの紙で指を切ったときの感覚に似ている。
そんなこんなで今フェルトと犬の毛と格闘している。完成したらブログに載せたい。
ソーニャ・ハートネット『木曜日に生まれた子ども』
ようやく読み終わり、余韻が胸を包んでいるうちに感想を書こうと思う。
ソーニャ・ハートネット『木曜日に生まれた子ども』
ガーディアン賞を受賞した作品だそうだが、私はソーニャ・ハートネットを知るまで、この作品を知らなかった。
私がこの作家を知ったのはつい最近のことで、これも運命的なものなのだが、『銀のロバ』で知ったのだった。というのも、最近はもっぱら児童書ばかり読んでいて、それで、その日もいつものように、なんとなくこの本を手に取ったのだった。翻訳小説というものがあまり得意ではなく、読んでもまぁおもしろかったな、くらいのものにしか捉えないのだが、この作品は違った。訳者の訳がよかったのか、それともソーニャの力なのか、もっと読んでみたい、と思ってしまったのだ。
そうして、ソーニャ・ハートネットという作家を検索したのだが、どうやら『木曜日に生まれた子ども』という本が有名らしい。ならば読んでみようじゃないか、と手に取った次第である。
初めは『銀のロバ』ほど甘くいかなかった。近頃児童書ばかり読んでいたせいか、文字の詰まった本はなんとなく読みづらく、内容もいまいち頭に入ってはこなかった。
ところが、まぁ月並みではあるが、半分を過ぎるか過ぎないあたりで、どんどんと続きが気になり始めたのだった。
簡単にあらすじを言うと、主人公ハーパーの弟・ティンは、物心つく前から、穴を掘ることを得意としていた。そうしていつの間にか、穴を掘ることに夢中になり、家族から離れていってしまう。一方で、もともと裕福とは言えなかったハーパーとその家族に次々と災難や不幸が襲う。それは弟のティンも無関係ではなく、むしろこのティンによってもたらされたものもあった。どんどん崩壊していく家族と離れていく子どもたちの、決して明るい部分のない、ただ薄暗い様子が描かれている。
『木曜日に生まれた子ども』を読むにあたって、あらすじを調べた。
「BOOK」データベースでは
オーストラリアの開拓地で、厳しい自然を相手に暮らす一家。少女ハーパーが語る、不思議な能力を持つ弟ティンと彼に守られた家族の絆の物語。
と書かれている。正直これでは、どんな内容か分からないだろう、と読んだ後になって思う。ティンの不思議な能力と言っても、穴を掘る、ということだけだ。確かに、類を見ない設定だと思うが、それで何か起こっても、そこまで不思議な能力とは思えなかった。ましてや、それが物語に関わってくるとは。もちろん、この作品自体、ハーパーの目線で書かれた、ティンにまつわる話なのだから、関わってこないはずもないのだが、それでもどう繋がるのか、まったく想像していなかった。ラストの思わぬ展開に、私は見事に魅力されてしまった。
仄暗く重い話題なのに、どうしてこんなにするすると読めるのか、今となっても分からない。それがこの作家の偉大なところなのだろう。確かに読んでいて楽しいものではなかったかもしれない。ただ、この本を読み終わったあと「穴を掘り続けている」ティンのことが、どうしようもなく愛しくて、好きになってしまうに違いない。
- 作者: ソーニャハートネット,Sonya Hartnett,野沢佳織
- 出版社/メーカー: 主婦の友社
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世界の果ての景色
去年の末、2泊3日で和歌山の白浜に行った。アドベンチャーワールドを目的とした旅だったのだが、それだけではもったいないので、千畳敷や白良浜など、いろいろ見てまわった。
海のそばで育った私でも驚くほどに海は綺麗だし、千畳敷の自然の偉大さと不思議さを感じる景色は今でも目に焼きついている。
けれども一番、思い出に残っているのは、そういった観光地ではなかった。
観光案内に載っていない場所。地図にも載っていないような、そんな場所が、ずっと私の心を捉えている。
駐車スペースの脇に獣道がある。それをずっと進んでいくと、ぽっかりと大きな穴の空いた場所に出るのだ。まさに断崖絶壁。何も知らずに歩いていたら、落ちてしまうかもしれない。
下を覗くと、波が打ち寄せており、今なお岩を削りとっている。
遠くを見ると、獣の寝ぐらのような、不思議な洞窟らしきものの闇が覗いている。
大きな穴の反対側。
断崖絶壁とはうってかわって、岩の平地が広がっている。そこをずうっと歩いていくと、まるでケーキでも切り分けたかのような、これまた大きな切れ込みがある。この切れ込みもまた不思議で、遠くから見ればずっと波打ち際までなだらかに続いているように見えるのに、ふいに切り離されているのである。
平地の続くほうを歩いていると、突然、世界が変わったかのように、でこぼことした赤い岩が続く場所に出る。線を引いたようにきっぱりと分かれているそこは、岩の平地や大きな穴ともまた違って、まさに冒険、探検をしているような、ともすればアスレチックのように過酷な場所になる。端まで歩けば、また違う穴に出くわす。
説明を聞いただけでは、一体どんな場所なのか、検討もつかないだろう。だって、その場にいた私でさえ、なんとも不思議な気分だったのだから。
けれど、その世界の果てのような、何もかもが地球を、人間を見捨ててしまったかのような、波の音だけが耳を突くその場所が、なぜだろう、ずっと心に残り続けているのだ。
きっとあの場所は、本当に世界の果てで、誰の心にもある「端っこ」だったのかもしれない。
随分更新していなかったから、お題で1つ書いてみました。とりとめもない1ページ。
珈琲党だとか紅茶党だとか
珈琲が好きだ。
定期的にカフェインを取り入れないと、禁断症状が出てしまうくらいには。とは言え、豆の違いもロクに分かっていないのだが。ブルーマウンテンが良い豆だ、というくらいの知識しかない。
ところが生意気にもハンドミルを持っている私は、時々ごりごりと豆を挽く。たちまちいい香りが鼻腔をくすぐる。幸せだなぁと思えるひとときである。
珈琲の淹れ方も自己流で、随分前に喫茶店で聞いたコツのうろ覚えと、父親の珈琲を淹れる様子だけで淹れている。父親も珈琲が好きで、よく淹れているものだから、何かコツを知っているものだと思っていたのだが、聞いてみると「なんとなく」と言う。珈琲とは得てしてそういうものなのかもしれない。
そんなことを言えば、世の珈琲党の皆さんに怒られそうだ。
怒られそうといえば、私の珈琲の飲み方もそうで、珈琲なんてものはカップの1、2割。多くて3割ほどのもので、あとはミルクをたっぷり入れる。喫茶店にある、「ミルクコーヒー」と呼ばれるもので、メニューにあるくらいなのだから、飲み方としてはあながち間違いなのではないのかもしれない。けれど、世の珈琲党は、これは偏見かもしれないが、ブラックじゃなければ意味がないという方が多数いると思うので、やはりもったいない飲み方ではあるのだろう。そんな微量のカフェインでも摂取したいのである。
これほど珈琲を飲んでいる私だが、かつては紅茶派であった。嫌いになったわけではないし、今も飲まないことはないのだが、まぁ昔に比べると割合が少なくなった。紅茶はそれなりに銘柄を知っていて、中でもアールグレイがお気に入りだった。紅茶を飲みはじめた頃は、レモンティーにしてよく飲んでいたが、ストレートで飲むようになったり、ミルクティーにすることもままあった。まぁさまざまな飲み方で飲んでいたのだが、あるとき、ミルクティーというものは、少しのミルクを入れるのではなく、たっぷりのミルクを入れて飲むものだと知ってから、ミルクティーばかり飲むようになった。ロイヤルミルクティーというものが特にそうで、たっぷりのミルクで紅茶を煮立たせて作るのだ。優しいミルクの中に香る紅茶がなんともうまい。
世には、紅茶を好む者と珈琲を好むものがいて、歴史を辿れば、イギリスで発展した紅茶と、それに反発して珈琲文化が栄えたアメリカという、結構深い溝があるのだし、現代でもそれなりに溝はあるように思う。けれども、どちらも好いている私のような人間もいるし、なんなら、誰にも怒られそうな飲み方をしている。
そういえば、ココアだって昔から、たっぷりのミルクで作っていたっけ。
そう考えると、私は珈琲派でも紅茶派でもなく、ミルク派なのかもしれない。
復活おめでとう
Monster Hunter ことモンハンにナルガクルガが帰ってくる。突然姿を消してから数シリーズ。遡るのも調べるのも面倒なので、いなくなってからどれだけシリーズが出たのか分からないけれど、とにかく久しぶりなのだ。復活するのだ。
お察しの通り、ナルガクルガが好きだ。モチーフにはコウモリが入っていると思ったのだが、名前の由来は「ナーガ」+「クーガー」らしい。確かに蛇のように狡猾で、ピューマのように素早い。
あの獰猛さ、狡猾さ、俊敏さ、素敵じゃないか。暗闇に紛れて奇襲をしかけたり、目を爛々と輝かせたり。ともかく、ナルガクルガが好きなのだ。
それがあの、素晴らしいグラフィックと、広大な自然の広がるMHWで帰ってくる。
待ち遠しくて仕方ない。
『いわしくん』
きょうび名作と呼ばれるものは山のようにあるし、それが絵本だろうが、大人でも感動するものはある。
それはともかくとして『いわしくん』を読んでほしい。
タイトルから分かる通り、主人公はいわし。
いわしが生まれて、捕まって、売られて、っていうのを淡々と描いてるんだけど、最後の一言がなんともグッとくる。
たぶん人間優位で、こうだったらいいなっていうのはあるんだけど、なぜだか自由を感じる。言葉じゃ言い表せないけど、みんな最後の一言と絵には引き込まれると思うから、ぜひ見てほしい。
- 作者: 菅原たくや
- 出版社/メーカー: 文化出版局
- 発売日: 1993/11/06
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