幽霊船は海で踊る

一週間に一度、おすすめ本の投稿をしています。

無気力Holiday

 

休みの日になると急に何もしたくなくなる。

普段やる気があるのかと言われると、何も言えないけれど、最近の休日はもっぱら寝てばかりだ。

休日くらい、家事などはしないにしても、例えば、動画を見るとか、本を読むとか、そういうことさえできなくなってしまう。

どうしたものか。

そんなことに嫌気がさすけれど、そういえば今日は買い物に出かけた。

何もしないのも嫌で、今日はちょっと長めに散歩もした。

朝もちゃんと起きて散歩に行ったし、帰ってきてから朝ごはんも作った。

土で汚れた愛犬をお風呂にも入れたし、散歩道具を洗いもした。

今日は思ったよりもたくさんのことができたみたいだ。無気力で仕方ないときも、時々振り返って自分を励ますのもいいのかもしれない。

ご飯はあまり食べてないけれど、そこには目を瞑ろう。

毎日ちゃんと頑張ってるよ。それでいいよ。

幸せなこと

こうしてブログを更新するようになって思うのは、読んでくれる人がいるというのは、幸せだなぁと。

 

コメントがあるわけではなし、アクセス解析だけの情報だから、実際何人が読んでくれているのかはわからないけれど、ページを開いてくれるだけで幸せってもんだ。

 

思うに、昔から何かしら文章は書いていて、そして、いつも誰かが読んでくれていた。これって、とても幸せなことなんじゃないかと思う。

 

少し前、ちゃんと勉強しようかと考えて、ある学校に資料を請求したことがある。

とても丁寧な学校で、資料が届いてしばらくした後、電話での説明を受けた。

曰く、誰かに読んでもらったり、そういう話がしたくて勉強する人もいるようだ。

そう考えれば、私のような環境はとても稀だということになる。そして改めて、いつも読んでくれるみんなに、感謝しなくては、と思った次第である。

 

好きに文章が書けなくなって久しいけれど、いつもなにかしら表現したとき、見てくれてありがとう。

これからも、たまにでいいから読みに来てね。

「言の葉の庭」が刺さって抜けない

昨日初めて「言の葉の庭」を見た。想像していた話とは随分違って、けれどとても良い作品だった。

 

良い作品だったのだ。

心に刺さって抜けないくらいには。

 

「歩き方を忘れてしまった」というのがもうだめだった。その言葉が、刺さって抜けないままでいる。

 

「歩き方を忘れた」雪野先生と、その雪野先生が遠くまで歩けるように靴を作るタカオ。

靴というのは不思議なもので、遠くに連れていってくれるものであると同時に、プレゼントになると「どこか遠くへ行ってくれ」という意味になる。

タカオの気持ち的には間違ってはいないのだが、一般的にはマイナスの意味になってしまう。だから、タカオが「どれだけ遠くに行ったって会いに行く」と言うことで、すべてをプラスにしていて唸るほかない。

 

とまぁ冷静に解釈しているのだが、雪野先生に共感してしまって、見終わったあとも涙が止まらなかった。

 

話は少し変わるけれど、映画でも音楽でもそうだが、すべてのものに私は共感してしまう。

最近そんなことを異質に感じてしまう。だって、あまりにも主観的すぎる。客観性のかけらもない。私のフィルターを通してしまっては、作品の解釈がブレてしまうような気がするのだ。それになんだか嫌じゃないか。この人の気持ちは私と同じだ、とか、私の気持ちを代弁した曲だ、とか。

けれど、他人が言っていてもさほど気にならないから、ただ自分がそう思っているのが嫌なだけかもしれない。

結局こんな話に落ち着く。そんなところも嫌だなぁ。

犬の話

 

3ヶ月前、我が家に犬がやってきた。

 

というのも、土砂降りの中、車通りの多い道沿いを走っていたらしく、そこを保護してきたのだった。

赤い首輪をした人なつこい柴犬の男の子で、まだ子どものようだった。

 

今日で3ヶ月経つ。

警察での預かり期間が終わり、飼い主が見つからなかったこの子は今日から我が家の一員となる。

名前はゴウ。

強くてどこへでも行くからゴウ。

 

記念に今日はケーキを買ってきた。

いたずらばかりのやんちゃなこの子と、これからどんな日が過ごせるのだろう。

 

 

ところで、以前この子の毛でぬいぐるみを作ろうとしたが断念した。路線変更してただの毛玉を作ったのだが、ゴウに一瞬にして破壊されてしまった。無常である。

文学忌

 

文学忌というものがある。小説家や俳人の命日をそのペンネームや代表作などにちなんで偲ぶ日としたものだ。有名なのは太宰の桜桃忌だろうか。

恥ずかしながら私も最近知ったのだが、桜桃忌だけでなく、檸檬忌や菜の花忌、石榴忌など、粋なものが多い。

なぜ急に文学忌の話を持ってきたのかというと、純粋に憧れるからである。

 

死んだあとも、そんな風にくだものや花の名前で弔ってくれるなど、なんとも幸せではないか!

もちろん、花やくだものの名前がついているのは、その作家がそれをタイトルにして小説を書いているからなのだけれど。

私はなるべく人目につかないところで朽ちるように死にたいし、できるだけみんなの記憶から抜け落ちたいのだけれど、つまり、そういう弔いはしてほしくないのだけれど、それでもつい憧れてしまう。

私は作家ではないし、おそらく有名になることもないだろうが、もし私が死んで、誰か覚えていてくれるなら、こっそりと私の命日に何か名前をつけてほしい。

家族って

 

家族ってなんだろう、と考える。

世間では、家族をかけがえのないものとして扱うが、私にとってはよくわからない。

 

べつに、ネグレクトや暴力に悩んでいたわけではないし、おそらくうちは、まぁ一般的な家庭だろう。

ただ若干の、いわゆる毒親なんだろうな、とは思う。

我が家は代々過保護な家系で、その家の長女として生まれた私はとにかく可愛がられた。また、幼い頃は体が弱かったこともあり、輪をかけて可愛がられたのだと思う。

あまりにも可愛がられた私は、自分の意思を持つのが遅かったように思う。小学校の記憶は曖昧で、高学年になってやっと、ぼんやりと思い出せる程度。

それまでは、夢で見た突拍子もない物語のように煙に巻かれている。

 

中学生のとき、なにをきっかけにしてか、私は別の私になったように思う。

 

幼い頃の私と今の私とでは、まったくの別人と言っていいほど違っているだろう。自分でも理由は分かっていないが、本当にあの両親から生まれたのか?と疑いたくなるときもあった。

まぁ別のところで、血が繋がっていることを感じてしまうのだが、今は置いておこう。そのあたりから、家族といっても、自分とは違う他人に過ぎないと考えるようになった。

 

まぁ話し始めると長くなるので詳細は省くが、過保護な家庭で育ち、いい子になるように呪いをかけられた私は、けれど、自分で生まれ変わり、あるいは呪いも解けぬまま、中途半端に生きている。

些細なことだけれど、ずっと許せないで、私は間違っていないと思いながら、けれどトラウマになってしまった出来事がいくつかある。

 

お小遣いの計算を間違えて、余分にお菓子を買ってしまい、怒られたこと。父親に怒られ、海に突き落とされそうになった。

車の駐車のとき、ぼうっとしていた私に放った「役に立たん」の一言。

受験シーズン。塾の帰りに寄ったコンビニで雑誌を立ち読みしていたら、置いて帰られたこと。

片付けができない私に浴びせられる人格否定。

 

「役に立たぬ人間なのだ」と植えつけられた私は、一体なにをすれば役に立てるのかがわからない。

一緒に買い物をしている人とはぐれるのが恐ろしい。

うまく生きられないと、他人と比べてしまうと、私は人間としてやっぱり失敗作なのかと感じてしまう。

 

親から離れて過ごす日々は、驚くほど快適で、実家に帰ることも少なくなった。

けれど、どうしても、私はいい子に育てられてしまったから、親孝行の1つもしないで、ぼーっと暮らす私は、それでいいのかと考える。

両親だけで暮らしていることを哀れに思ってしまう。

たとえそれが家族であれ、息苦しく感じるならば無理にいっしょにいる必要はない。分かっているはずなのに、どうしても不安になる。

家族のことを考えられない、大事に思えないなんて、なんて冷たい娘だろう!

 

別に、家族だからといって、家族を愛せなくてもいいと思うんだよ。

ショートカット

 

日曜日、髪を切った。

本当は2ヶ月前から切る予定はあったのだが、予約前日に犬がきたりなんだりと、いろいろあって今になってしまったのだ。

 

2ヶ月前から切りたかっただけあって、まぁ頭は結構な感じでもさもさだった。

担当してくれたお兄ちゃんにも「髪がなくならない」と言われるほどに。

 

ときどきそうするように、今回もばっさりと切った。頭の軽いのなんの。

 

昔から、髪を切るのは失恋したときだのというが、まぁ恋愛が絡んでいようがなんだろうが、一度思考をリセットするにはちょうどいい方法だとは思う。思いのほかさっぱりするし、なんだか思考が煮詰まっていたり、ストレスが溜まっていると髪を切りたくなるものだ。

 

ところで、髪を切るとき、私はスタイリストさんの指定をしない。放っておけば半年、あるいは1年切らないこともざらな私にとって、同じ美容院でも、行きつけ、といえるほどのものではないし、それだけ行かなければ、スタイリストが誰だろうがどうだっていい、というのが理由だ。

ところで、スタイリストというのは話しかけてくるものである。それがあまり好きではないのだが、向こうも仕事なので仕方ないのだろう。

閑話休題

 

今回、運悪くも私のカットを担当してくれたのは、髪の毛が緑色のにいちゃんだった。

さして第一印象はないのだが(まったく気にもとめてなかった)、まぁこのにいちゃん、口がうまかった。

いや、本人から聞いたわけではなし、本音かお世辞か知る由もないが(まぁ仕事上お世辞だろう)、ショートカットが似合う!と褒め称えながら、とてもこだわってカットしてくれた(ようだ。私には違いが分かっていない)。

私のカットがどうであれ、ネギのにいちゃん(子どもからそう呼ばれているらしい。特定されたらどうしよう)があんまりにも楽しそうに切るもんで、事実私に似合っていようがいまいが、どうだっていいやと思っていた。

にいちゃん曰く、アッシュカラーが似合うそうだ。

正直、にいちゃんほどショートカットが似合うとも、髪の毛染めたら似合う、どんなカラーがいいだの言われてこなかったもので(私は髪の毛を染めたいと思ったことがないし)、へーそうなんだくらいにしか思わなかったが、にいちゃんがあまりにも楽しそうだったので、ちょっとだけ、染めるのもいいかもしれない、と思ってしまった。

にいちゃんの罠にまんまと嵌められたような気がする。

 

 

ところでこの記事は、カットしてくれたにいちゃんが楽しそうで良かった、という内容のものであり、よく言う(?)女性の「ナンパよくされてこまっちゃ〜う(自慢)」(大いなる偏見)みたいなものではない。そう勘違いされるのは誠に遺憾である。

こういうことを書くと余計に勘違いされそうだが。